大人になると会話の潤滑油として相手の褒められそうな点を探し褒めるし、褒められたら謙遜や褒め返しをする。
もはや半分意味のない記号的なやりとりになっている事が多く、特に褒められても自信を持ったりしないし、逆に本当に褒めるべき事案があった際には、褒めるという行為自体が傲慢であるように感じる事があって、褒める以外の行動を取るようになる。
とはいえ、褒める褒め返すのキャッチボールができると人並みに大人になったような感覚を持てたりする。
たまにめんどくさくなる。
褒められるのが面倒くさいので、速く会話を終わらせたくて褒め返しや否定をして会話を変える。
謙遜すると余計人は褒めたくなる傾向があるので、逆に褒めたくなるなくなるぐらい傲慢に振る舞って相手を不快にし、自分にプレッシャーをかけた方が色々背負えていいんじゃないかと思ったりする。
そういう面倒くさいことをたまに考えるタイプの人間です。
子供について。
文字を覚えたり、絵を書いたり、楽器を練習したり、褒められそうな機会がある。
「上手だね」と記号的に処理することに抵抗がある。
何故か。
たいてい上手ではないから。
子供に対してだけ何故か審美眼が厳しくなる。
「(以前に比べて)上手になったね」であれば事実に反しないケースがたくさんあるが、これも抵抗がある。
何故か。
上手になることが一概に良いことだとは思っていないから。
良いと思っていないことを子供にあまり言いたくない。
特に絵なんかそう。写実的に書くことがいいと思えない。そういうことを考えてしまう。
なので、手紙を書いてくれたら「嬉しいからまた書いて」とか絵を描いたら「もっと描いて欲しい」とか言うようにしている。
褒めなくてはいけないことはないと思うので、これでいいと思っている。
こういう返答のバリエーションを子供が喜ぶ形で増やしたい。
結局、良い悪いの評価をする事に抵抗があるんだと思う。
短期的に得たものが、中長期的には失っていることと同義だったり。
これは子供でも大人でも同じだと思う。
わからないことはわからないまま置いておいて、わかる自分の気持ちだけ誠実に伝えるようにしたい。
深夜の走り書き。